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シャカ仏教とは

一般に宗教とは、英語のレリジョンの訳語として明治初期に広まったとされます。神と人を再び結びつける。ありとあらゆる学問はもとは神と人の関係を理解するためになされてきた。

そこで仏教はもとは真理を求めたブッダに始まり、存在、時間、宇宙とはなどの現代物理学と同じテーマを探求する大乗仏教に至ります。大乗仏教の祖とされる龍樹の「空論」の中の時間論、そして世親の「唯識論」(存在のすべてが認識によるという論)など仏教の論がそうです。

そうなると仏教とは一般の方は宗教といカテゴリーに含みますが、よく理解すると科学、哲学の分野になります。原始経典を読むとブッダは感情のない人、ある意味冷たい「そうできれればいいけど。。。」と思うような情を排除したひとに見えます。それが仏教でいう「真理」。
そのことを後世の人が論として「ほら、こうなればこうでしょ」と証明してきたのが大乗仏教として体系化されてきたと思われます。

しかし現代のように教育を受けている人がいない時代に、どう説明すれば多くの人に真理を体得できるかという中で、無数の、仏、菩薩が考えだされたいわゆる「方便」ということです。方便を通じて個人の我執を捨てられることになり、真理をさとり苦悩が滅して生きていくことができる。

最先端の現代物理学者が仏教に興味を持つのは、観測結果が何百年も前に仏教でいわれていることと同じだということです。そういう意味で仏教は科学が今後証明するであろう世界を先取りしていると言えます。ということは仏教は宗教というカテゴリーではなく仏教というカテゴリーではないでしょうか。

親鸞の「教行信証」には巧みにブッダの仏教論からと、方便からの悟りが書かれています。いわゆるダブルスタンダードです。浄土真宗では方便からの「西方浄土」がメインになっていますが、実は親鸞は27歳まで比叡山で体系的に仏教を学んでいたので、法然の念仏からのブッダの論の証明を書かれている、「念仏もブッダの教えと同じ、山登りの登り口が違うだけでしょ」ということ。

自分には「わけのわからないこと」を信じるのではなく、論で理解体得することができる。それが書かれているのが教行信証です。