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親鸞さんに戻る

 ここ半年の間に当たり前だった世の中の仕組みが大きく変化しています。世界に比べて日本は相対的にコロナの影響が少ないですが、世界は大きく変化しています。日本の宗教にもその改革の流れが今から来ると思っております。タイトルに「親鸞さん」と書いたのは、学校の先生のような教える教えられる関係ではなくて、お友達、同じような悩みを抱えた仲間のような関係を親鸞さんは望んでいると思うからです。

 

私は、「親鸞自身はその時代どう考え、何を感じ、どう行動して生きていったのか」そのことを親鸞の言葉から知りたかった。今の社会情勢を見てどう思うのかを本人に聞きたいのです。裏を返せば日本の現状に対し西本願寺からはあまり見えてこないように思います。

 

親鸞がたどった道をたどるか、それに近いぐらい本当に悩んでギリギリまでいかないと親鸞の言いたいことは体得できないだろうと思う。どこまでも想像することしかできない。その言葉だけを椅子に座り勉強して覚えてもそれは最短距離で親鸞の結果だけを覚えることになる。教団として教義を体系化して布教活動すればするほど親鸞から離れていくという矛盾があるようにと思います。そのあたりのことがこれからの改革になると思います。

 

上のような疑問を持って調べていくと信楽峻麿(しがらきたかまろ)氏が教団改革の運動をしておられた。信楽氏は教授から龍谷大学学長を89~95年まで勤め、そのあと仏教伝道協会理事長を95~08年まで務めた方でもうお亡くなりになられている。今の西本願寺の信心理解に批判意見を述べており、戦時教学の反省がなく、戦後その人たちは教壇に立って教えている。

 

信楽さんは阿弥陀様は外におられて私たちを引っ張り上げて助けてくれる存在ではありません、阿弥陀様は私たち一人一人の中におられ、信心が得られた(目覚め体験、さとり)後は私たちの人格確立、行動変革すると言われる。

これが親鸞の信心の姿であります。現実の生活に変化のない信心はありません。

自力、他力を超えた行動変容だと思います。

 

「親鸞はどこにいるのか」信楽峻麿では

 かつて、釈尊によって体解された「悟られた」ところの、このような宇宙世界に遍満し、貫徹している究極的な真理、真実を、私たちにとってもっとも易しくわかるように、そしてまた、このことをだれでも体解できるようにと、改めて説明し、表現されたものが、阿弥陀仏ということです。「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心(しん)なり。」と明かされるのは、まさしくそのことを意味するわけで、阿弥陀仏とは、この宇宙世界にみちみちて普遍的に貫徹し、一切群生海の心、私たち一人一人の生命の中にまでに、来たり宿っているということです。

 

親鸞の言葉から説明して納得するところが多かった。親鸞没後から親鸞の思想は曲げられており、蓮如の時代は浄土真宗は廃れてきていた。門主として蓮如は再興するために親鸞の本意を曲げてでも時代に受け入れられるように他宗の教えを入れたのだろう。蓮如のおかげで今の真宗もある。この話が事実であるかどうか違う見解に恐れず風通しのいい議論ができるようにしないと門徒は離れていくだろう。

 

下には村上氏の「真宗教義の誤解と理解」著書からの抜粋

私たち末寺は今親鸞さんに戻るべきではないだろうか。

 

「私たち真宗の教えを学んできた僧侶にとって、特に反省すべきは、教義論題の形骸化と、訓詁解釈学といわれる従来の真宗学のあり方を問うことではなかろうか」「完全無欠な教義として整備された論題から、いったい、何の感銘や感激が得られるであろうか。また、精微をきわめた訓詁解釈学によって、果たして聖教全体に、あるいは文字の底に流れる著者の生々しい信仰体験をつかむことができるであろうか」

 

 親鸞教義が誤解され歪曲される大きな原因は、親鸞聖人にとって結論であったものが、しばしば前提として説かれ、ときにはそれを強制する形で説かれているということである。たしかに聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論―たとえば、他力のすくい、悪人のすくい、往生のすくい―というものにちがいない。しかしその結論は突如として現われたものではない。文字通り彫骨鏤身の辛酸と苦悩と模索のなかから見出されたものである。ある意味ではそのプロセスこそ重要である。しかるに、往々にして聖人の求めたものが語られず、その厳しい道程が語られないで、一挙に結論だけが語られる。真宗の教えを聞く人ならば、面喰うのがむしろ当然であろう。頭から他力でなくてはならぬと強制され、悪人であることを強いられ、浄土に往生を強制されるように考えてしまう。そこに大きなギャップが生まれるのは必然である。